戦後70年…。

明日、8月15日、終戦記念日です。

ここ一週間ほど、節目の年ということでTVでは色々な特別番組が組まれ、毎晩なんだか、テレビを観ていてはらはらと涙が流れます。戦後70年と日航ジャンボ機墜落事故後30年…という節目。
いまだ惨劇と悲劇からの哀しみが癒えない生存者や犠牲者の遺族らの様子から、テレビの画面からでも充分過ぎる程その深く仕舞い込まれてきた苦しみが伝わってきます。

いずれも人災。人間が正しいことを貫いていれば、起ることがなかったであろう人間に起因する災い。(日航ジャンボ機墜落事故などは、事故後30年にして、尾翼が欠落した原因はボーイング社のジャンボ機修理ミスにあった…と報道番組で報じられていました。)

数日前には、NHKスペシャルで、戦争に駆り出された13歳から16歳くらいの少年兵がいたことが報じられていました。二度とこんなことのないように…と締めくくられる以前から、人間が歴史的になんと同様のことを繰り返してきたことか…と気が遠くなる想いがします。戦争のために子供をマインドコントロールする、銃器を操れるように訓練する…、それは現在だって、とくにイスラム国とやらのプロパガンダ映像でも明らかに見ることができます。子供を守るどころか、戦争マンパワーの強化に利用しているだけ…。

特攻隊の生存者、少年兵の生存者、従軍看護婦の生存者、原爆被爆の生存者…、墜落事故の生存者、生存者のすべての人に共通していることは、哀しみや苦しみが癒えていないという事実。従軍した生存者の殆どが80代と90代のお年寄り。今も戦争の体験を思い出して涙が流れる…、可哀想です。そして、二度と同じことが起きないようにと願い、何等かの活動をし続けている人々にも頭が下がります。そんなドキュメンタリーをテレビで観たりすると、私にはいったい何が出来るだろう…と感じたりします。でも、感じないことには何も始まらないので、感じないと。そして、節目の年でなくたって、感じていないと…。

今月1日、興味本位で、とある旅行社のとあるバスツァーに参加しました。そのツァーは、「横須賀米海軍横須賀基地・ヨコスカフレンドシップデー」というもので、一年に一回だけ開催される普段は入れない米海軍基地の親善フェスティバルでした。なぜ興味を持ったか自分でも分かりませんが、お一人様参加OKだったので、簡単参加でした。

35名の参加者のうち、お一人様参加の男性が15名。これは稀に見る多さだそうです。(普段は中高年の女性が圧倒的に多いそうです。)お一人様参加の女性は、私が気付いた限りでは数名。他は二人連れ。男性は殆どがお爺ちゃんでしたが、20代と思われる男子も二人いました。私が往路で隣り合わせになった女性は、70代と見られるご老人。時間が経つにつれ、彼女が何故このツァーに参加したかを知ることになりました。

彼女は横須賀出身。本当は妹さんと参加したかったけれども、都合が悪くて一人で参加。昔住んでいたところが、今どうなっているかを出来れば確かめたいと思ったそうです。(昔の住所表記を持参してきていたようでした。)

それにしても何故? 
彼女の父親は、日本海軍で働いていたとのこと。母親が仙台出身で、戦争が激戦になった頃に仙台に疎開してきたそうです。横須賀に住んでいたのは6歳まで。横須賀の記憶も父親の記憶もそこまで。その後、父親は戦死してしまったとのことでした。父親が海軍で働いていたことは知っていても、どのような仕事をしていたかは国家機密で、その内容は妻にも知らされていなかったそうです。彼女はどうしても、父親が戦死するまでの経緯を知りたくて、様々な書類を揃えて厚生省(恐らく現在の厚生労働省)に問合せをしたそうです。つまり彼女の一家は、遺族年金(=軍人恩給)を受給していたために、問合せをすることが出来たようです。直属の親族でないと、詳細を知る権利がないとのことで、彼女は一親等の娘な訳だから、父親が命を奪われたときまでの経緯を知ることができたそうです。

彼女の父親は「はやかぜ」(ひょっとすると私の記憶が曖昧で「はたかぜ」だったかもしれない)という軍艦で働いていて、日本が真珠湾攻撃を行う直前までハワイに居たということまで記録されていたそうです。(証拠に、遺品の中にはハワイで購入したと思われるレコードが遺されているとのこと。)真珠湾攻撃の前に日本に帰国し、その後米軍の魚雷攻撃によって戦死した…ということまで分かったそうです。私は、彼女の話にのめり込み、なにげに根掘り葉掘り質問してしまいました。(話を聞きながら、私がスマホで話の内容をチェックしていると、「孫がそうやって調べてくれた」と言っていました。)

このバスツァーには、「軍港めぐり」も入っていました。長浦港。観光船に乗船するまでの間に通るお土産ショップで、彼女は突然声高に叫びました。ほとんどピョンピョン飛び上がっていました。「見つけた、見つけた!あぁ、見つけた、父さんの船だ!」彼女が見つけたのは軍艦の名前が入った小さなバッジでした。「はやかぜ」と書かれたバッジ。コレクターズアイテムです。彼女はお土産に何個も買いました。たぶん、7個くらい…。きっと孫たちの分まで。

私は思いました。子供の頃に戦争で死に別れた父親の存在を、きっと片時も忘れることがなかったに違いない…と。哀しく、寂しい思いをしたのだろう…と。彼女の心中に深く残っている戦争の傷跡を生々しく感じざるを得ませんでした。彼女は70代、ひょっとすると80代。この一週間、TVドキュメンタリーで観た、哀しみの癒えない戦争犠牲者の遺族の一人。私が体験したことのない感情について、本当に色々と考えさせられました。

今日は最高齢の私の叔父と長電話しました。
むかし家裏の竹藪にあったという防空壕のことを知りたくて…。昭和20年7月10日、仙台が空襲を受けたことを教えてくれました。仙台空襲があったことは知っていても、日付なんか知ろうともしていなかったけれど、叔父はちゃんと記憶していて、家の近くに焼夷弾が落とされたために、慌てて防空壕を掘ったのだそうです。でも、すぐに終戦になった…のですって。私の父は8人兄弟で、うち5人が男兄弟。徴兵審査があったけれど、最高齢の叔父はド近眼だったので不合格、もう一人の叔父は肺結核を患っていたので不合格、私の父は機械工学系の研究生だったということで不合格だったそうです。(私は父も結核のために徴兵されなかったと思っていました。)残りの叔父たちは未だ子供。「幸い」と言うべきかどうか分からないけれど、戦争に行った血族はいませんでした。

今日はここまでにします。長くなり過ぎました…m(__)m。
明日は「終戦の日」を噛みしめていようと思います。
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by tomtom2006T | 2015-08-14 23:31 | DIARY | Trackback | Comments(0)

ジャズ・マドンナ<十萌子>の、徒然なるままに・・・。


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